ミハエラと申します。現在は茨城県つくば市に住んでおり、ルーマニア語/英語を教えます。また翻訳・通訳の依頼もお受けいたします。


by Mihaela_Romania

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 今度4年前に制作されたドラマを見ることになりました。川端の小説「古都」は読んだことがあるので、あらすじはだいたい分かるけれども、どんなふうに映画化されたのかが楽しみです。とりあえず、朝日テレビのページ―からの一言。
  昭和30年代前半の古都・京都を舞台に、生き別れになった双子の姉妹の数奇な運命を描く。佐田千重子(上戸 彩)は、京都の呉服問屋「佐田屋」の一人娘。父・太吉郎(夏八木勲)と母・しげ(高橋惠子)に慈しまれ大切に育てられてきた。千重子には幼馴染でもある許婚がいた。同業の大問屋「水木商店」の次男・水木真一(小栗旬)で、ゆくゆくは佐田屋の婿養子となって、千重子を支えるつもりになっている。
  その日、千重子は真一と出かけるため、父の描いた柄の着物を着た。母は、若い娘にしては地味すぎるというが、父は嬉しそうだった。真一と清水寺にお墓参りに行った千重子は、子供のころから胸に秘めていた疑問を口にしてしまう。本当に自分は佐田の家の子供なのだろうか。幼い頃からの小さな疑いが積み重なって、なぜか自分は佐田の家の子供ではないような気がしていた。
  帰途、和菓子屋に入った千重子は、店内で幼馴染みの真砂子(北川弘美)と出会う。「久しぶりやなぁ」と言う千重子に、真砂子は「昨日、北山杉を見に行かはったやろ」と口にする。そこで見かけたというのだ。真砂子の言葉に千重子は困惑を覚える。
  そのころ、太吉郎としげは深刻な顔で話し合っていた。千重子に店を継がせていいのだろうか。まして千重子は実子ではない。千重子には気取られまいと注意してきたが、彼女は捨て子だった。二人は千重子を実の子と思い、慈しみ育ててきた。だが、自分たちに実子ではない千重子の将来を左右するようなことを勝手に押し付けてしまっていいものだろうか。二人は、千重子が血を分けた親子ではないのかと悩んでいることなど知る由もなかった。ある日、太吉郎は自分の描いた図案で娘の帯を作ろうと、手織機「大友」を訪ねていた。
   太吉郎の依頼に主人の大友宗助(石井慎一)は、店一番の腕の持ち主である息子の秀男(渡部篤郎)に織らせましょうと申し出る。ところが当の秀男は、お嬢さんの帯にしては寂しすぎると言って、太吉郎を鼻白ませる。やがて千重子は、真一とは違う大人の雰囲気を持った秀男に心が和らぐようになる。そして祇園祭の宵山の日、そんな知恵子の前に、双子の妹・苗子(上戸彩・二役)が現れる。

【以上、テレビ朝日広報資料より引用】

内 容
 背景は昭和30年半頃。京、室町の老舗呉服屋の一人娘、千重子は、両親の愛に見守られ幸せに暮らしています。しかし、千重子は捨て子でした。そして、祇園祭の人混みの中で自分とそっくりの女性に出会います。この女性こそ、双子の苗子です。苗子は捨てられはしませんでしたが、両親は早く死に、北山杉の奉公人として働いています。捨てられた方が、愛情いっぱい裕福なお嬢様に育っているという運命の不思議です。

  お互いが生き別れた双子だと知り、まだ「身分の違い」が残っている時代ですが、お互いが最後まで、相手を気遣い優しく思いやります。
 
  この二人の出会い、愛情と哀しみを間に描きながら、小説の中には、昔ながらの風習やお祭りが詳しく解説され、京都通になるくらい京の雑学が増えます。葵祭り、祇園祭、時代祭り、大文字焼き、鞍馬の火祭り・・・、季節のお祭りを追いながら物語は進みます。
『八月十五日の大文字は、盆の送り火である。夜、松明の火を投げ合って、虚空を冥土に帰る精霊を見送る習わしから、山に火をたくことになったのだという。東山の如意ヶ獄の大文字が「大文字」なのだけど、じつは五つの山に火がたかれる。金閣寺に近い大北山の「左大文字」 ~~~ 上嵯峨野の鳥居形、合わせて五つの送り火がともされる。その間40分ほどは、市内のネオン、広告塔も消される』  本文より

 また、日常の暮らしの中に京の老舗店が盛り込まれています。帯の図柄を考えるために嵯峨の尼寺にこもっていた父親に、千重子が届ける豆腐は、「森嘉」の豆腐。ここは、今でも行列ができるほど人気の豆腐屋さん。また、牡丹湯葉とやはた巻きを買いに行ったのは、御池通りの「湯波半」です。

『比叡と北山は、その色に押されて濃い紺ひと色であった。湯葉半では、牡丹湯葉とやはた巻きが出来ていた。
「お越しやす、お嬢さん。祇園さんで、いそがしいて、ほんまの古いおなじみさんだけで、かんにんしてもろてます」 ~ やはた巻きといふのは、ちょうど、うなぎのやはた巻きのように、湯葉のなかに、ごぼうを入れて巻いてある。牡丹湯葉というのは、ひろうすに似ているが、湯葉の中にぎんなんが包み込んである』 本文より

運命に翻弄される二人の主人公が、京都ならではの歳時記の中を、見事な京絵巻物のように生きてゆくのです。
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by mihaela_romania | 2010-02-26 19:41 | 日々のつぶやき
  今日は翻訳の仕事でワインについて調べることになった。ワイン飲酒の色々な面が気になっていたので、ネットで検索したら、こんなのが出てきました。

・”飲める””飲めない”は生まれつきのもの 
少量の酒でも顔が赤くなり、動悸や頭痛がする人がいます。このような人では、アルコールの代謝産物であるアセトアルデヒドを速やかに分解する酵素のはたらきが、生まれつき低いのです。そのため、すこしお酒を飲んでも血液のアセトアルデヒド濃度が高くなります。アセトアルデヒドは、アルコールそのものよりはるかに毒注が強く、皮膚の血管を拡張して顔面を紅潮させるだけでなく、いわゆる悪酔いの原因となります。

・イッキ飲み飲酒の無理強いは要注意
 日本人の約半数は、アセトアルデヒドの分解がうまくいかない人たちです。顔がまっ赤になっても、多少は飲酒可能な人もいますが、全くお酒を受けつけない人もいます。いわゆるイッキ飲みや、飲酒の無理強いによって、急性アルコール中毒をおこす危険があるので注意が必要です。
 
 私も普段飲まない人ですが、どっちかというと、たぶん「飲めない」タイプかも。でもワインはグラスで2杯ぐらいは飲めるとおもうよ!
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by mihaela_romania | 2010-02-12 06:39 | 日々のつぶやき

吹雪の中のブカレスト

  冬が終わりかけていると思ったら、さらに本格的になってきた。昨日から雪が降りだし、今朝窓越しから外を見たら、すごく積もっていた。こんな冬のとき、外に出られないし、家の中でごろごろしているだけです。
 今日は新しい本を読み始めた。準之助吉行の「夕暮まで」と言う本。
  ネットででこんなレビューが見つかった。
  
  「中年男性と若い女性の逢瀬。吉行のテーマである男性の性への向き方と、家族への向き方と、そして飽くなきつづく日々の生活への倦怠感と恐怖。短い文章の連続で、長編というほど長くもない。緩慢で、全体的に弛緩してて、読むこと自体はすごくあっさりしてる。ただ吉行の人間観察の視線が、ほんのちょっとした行間からときおり垣間見えて、その感情の機微が読後感をある種異様な気持にさせる。ふしぎな作品かなって、思う。」
「主人公のほうは四十代半ばといったところで、女性のほうは二十二、三歳か。この女性が頑なに処女を守り抜こうとするのは、なんともおもしろい描写かしらね。処女を喪わしめる行為以外はことごとく受け容れながら、しかしそれでも処女だけは守ろうとする。行きずりからの関係の、中年男性とはそこまでの関係に行くのは徹底的に拒絶する。しかし処女以外はどうともよい。ここらはなんとも、むずかしい問題かしらね。」
「処女喪失は大なり小なり、その人にとって人生の看過できない一事件である、かな。‥ただここの、処女にまつわる恋愛の問題ってあまり公的には語られない。処女がどうこうだとか、女性はこうあるべきなのだーとか、そういった感じの瑣末の議論というのはいつの時代でもあるものだけど、でも人と人との関係性においての処女っていう、恋愛と性のからみ合う領域の課題に、真正面からとり組めた人というのは、そういないのでないかな。それは処女というのはいろいろ厄介な問題があるみたいで、そしてその厄介さは無意識のもぞもぞとからまり合う部分が、意識上にのぼることがあんまりないことが関係してるのかなって気がする。フェミニズムも、この手の問題には十分に答えてないようにみえるし、この「夕暮まで」という作品は、まさにそういった処女性の問題に老練な男性が向いあう、そしてそのことに恐怖する小説だっていっていいと思う。‥だからこの作品はひどくざらっとしてる。それを美しい、なんていってもいいのかな。美しい場面がいくつも挿入された小説だけど、その美しさの狭間に吉行の孤独の視線がある。その視線が、私をしてひどく奇妙で、落ちつかない気分にさせる。」
「女性が処女を喪失する場面は、直接的には書かれてないのよね。女性が処女を喪った場面、そしてそれを破った男も、この小説にはつよく登場しない。ただ中年の男性の眼差しがある。その眼差しが、この作品を貫く、女性と性の問題そのものなのでしょうね。」
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by mihaela_romania | 2010-02-08 00:39 | 日々のつぶやき